昭和20年4月13日の夜、我が家は焼け落ちた。東京大空襲だ。

 家は2階建ての2軒続きの長屋。1階は祖父の洋服店。間口は狭く奥行きの長い家だった。ここに祖父母、叔母、母、妹、私の6人が暮らす。裏庭には井戸があり、洗い張りが出来る広さがあった。左隣はお寺で本堂はかなり離れていた。前の通りは坂でやや勾配があり、道路の反対側は空き地だった。その先は江戸川公園と神田川になっている。

 B29からの激しい焼夷弾で木造家屋の町は火の海だ。特にこの日、小石川と本郷地区が狙われたそうだ。風が強い。

 舞い上がった火の粉で空は赤く、吸う息は熱い。2階の軒先を火がなめるように這っている。すぐに軒裏が火を吹き始める。

 屋根に燃え広がった。やがて家は大きな炎に包まれてしまった。

 叔母と2人、危険を感じ避難所である高台の小学校( 隣は今の椿山荘、さらに東京カテドラル、獨協学園と続く) を目指す。進む坂道は左側が崖状でまともに風をくらう。火の粉と共に。

 B29からの激しい焼夷弾で木造家屋の町は火の海だ。特にこの日、小石川と本郷地区が狙われたそうだ。風が強い。

舞い上がった火の粉で空は赤く、吸う息は熱い。2階の軒先を火がなめるように這っている。すぐに軒裏が火を吹き始める。

屋根に燃え広がった。やがて家は大きな炎に包まれてしまった。

叔母と2人、危険を感じ避難所である高台の小学校( 隣は今の椿山荘、さらに東京カテドラル、獨協学園と続く) を目指す。進む坂道は左側が崖状でまともに風をくらう。火の粉と共に。

 防空頭巾を飛ばされまいとギュウとつかむ。その頭巾にも火の粉の嵐。焦げ臭いにおい。水をかけたくても飲み水しか持っていない。防火用水に水が残っていた、頭巾を浸ける。もう前へ進めない。運良くそばの防空壕に逃げ込めた。

 中は湿った土と、かび臭い匂いがする。ローソクの匂いも。壁はスコップの跡の残る赤土だ。それを背にして、一息つく。あたりを見渡す、家の防空壕より広い、6、7人が膝を抱え込んでいた。落ち着いたのか、急に母と妹がどうしているのか気になった。今はどうすることも出来ず、ただ小さく震えていた。

そんな中、叔母が袋から大事そうに小さな紙の包みを取り出した。何だろうと思う僕の手のひらに。そっと開いた包みのには「白い砂糖」だった。

なめる、甘い! ゆっくりとなめる、甘い!

 カラカラの喉に染みわたる。甘いものに飢えていた。砂糖は白かったのだ!と思った。震えも止まった。

 叔母がどこから手に入れたのか分からないが、白い砂糖は貴重品だった。サッカリンで代用していたと思う。

 翌日、獨協学園の体育館で母や妹達に会えた。

 恐ろしい昨夜の跡を見に、来た道を下って行く。助けられた防空壕を右に見ながらさらに下る。左にお寺を。その隣に、まだ燃えくすぶっている我が家の跡が、なにも言葉が出ない。僕のクレヨンが、僕の絵が燃えてしまった。ただ涙する。

神田川に沿っている江戸川公園を怖いもの見たさで見に行く。あっちの茂み、こっちの茂みに死臭が漂い、黒焦げの死体が転がっていた。丸太のようであまり怖くはなかった。川の底には水を求めて逃げ遅れた人が、折り重なっていた。もう見たくない。この大空襲での死者5万人? (新聞によっていろいろ)

食べ物合わせ

 焼け出された翌月に親元を離れ、東北の鳴子温泉横屋旅館へ。集団疎開である。小石川地区だけで約6500人の子供が移った。( 全国では45万人)。 町から子供の姿が消えたとある。小学2年生の時だ。

 宿の近くは硫黄のにおいがプンプンとし、地面も硫黄の色をしていた。温泉の種類もいろいろあった。なかでもくじら湯というお湯、鯨の色をし、ぬるぬるした風呂に入るのが楽しみだった。東京は水も薪も不足していてお風呂もままならずの様子。

 シラミは増えるのが早く、取っても取っても取りきれず、猿のノミ取りのような、シラミ取りが日課だった。髪の毛につくアタマジラミは坊主頭の男の子にはあまりつかず、女の子の中には仕方なく坊主にして抵抗した子もいた。衣類につくコロモジラミは縫い目にびっしり、それをつまみ出して爪の間でプツンと潰す。爪は吸われた血で赤く。畜生、シラミめ! 

 よく、お手玉の小豆を食べたとか聞くけど、あまり空腹の記憶は無い。サツマイモ入りのご飯はまあまあだけど、大根飯は匂いがきらいだった。野草取りにはいった。棘のあるあざみも食べた。タンポポ、オオバコも。

 虚弱の子供だったようで、栄養剤( 肝油) を飲まされていた。おいしかった。

 手作りのトランプの絵にカレーライス、カツ丼、月見うどん、寿司、ケーキ、あんパンなどを描いた。これで、お腹がふくれる訳でもないのに、この「食べ物合わせ」に熱中した。そんななか、唯一の楽しみは親兄弟との面会だった。お土産のヨーカンやおせんべいが回ってきた。

 毎晩、フトンを敷き終わると相撲が始まる。体の大きいのが強い。私たちチビだった何人かは、つらかったけど我慢、我慢が続いた。大人になってクラス会の席で、強かったやつに、このことを聞いてみた。覚えが無いと、あっけなし。

 8月に入ると疎開先のここ鳴子にも空襲警報がひんぱんに鳴るようになり、B29や艦載機がやってきた。近くの工場も爆撃され1人が亡くなった。

 その5日後に終戦を迎えた。しかしすぐ東京に帰れたのではなく10月まで過ごすことになる。

 今も旅館と年賀状のやりとりをしている人達もいる。温泉を懐かしんで行く人もいると聞いている。