家が焼ける前は、家族は皆仕事があり、いつも1人ぼっちだった。2階の8畳で絵を描く毎日だった。

 たまに前の通りをクラスのガキ女が、「タンコブ、タンコブ」と私をからかって通り過ぎる。その時は物干し場に出て、バーカーと言い返した。

学生の頃

小学校の頃に絵の展覧会を見に行った記憶はない。中学でゴッホ展を見たのかなーと思って調べたら、51歳の時で、記憶違いもはなはだしい。

 高校受験の時絵画の方に進みたいと親を困らせた。高校で手に職をもって卒業したらすぐ働いて、母を助けなければと、どこかで思ってもいた。父が機械科の先生だったこともあって、工業高校に行く。

 しばらく経つと職工をつくるのが目的の学校ではないかと思った。中途半端な学校を選んでしまった。

部活は、柔道部と吹奏楽部が有名で、大所帯だった。そんな中、絵画部をつくった。たった1人。

絵の具一式をもらった。校舎の屋上に出て、初めて「油」を描く。潮風に混ざったリンシードオイルの匂いを忘れない。     

初めての油絵

大学は建築を選び、やっと自分に合うものと出会った。

 美術部に入り、仲間が出来た。みんなで某大学の文化祭に行った。そこでその大学の絵画部が「校内スケッチ大会」を開いていたので参加。そのことを忘れていたある日、学校から戻ると「ホルベインの水彩絵の具」が届いていた。1等賞だった。冷やかし半分だったのに、びっくり。

 部に指導者がいるわけでもなく、勝手に描いていた、ただ描くことが好きなだけだった。他の公募展に応募して力を競ってみようとは思わなかった。先輩には独立展に出している人がいてそのうまさに脱帽した。

 全くの独学だだった。好きな作家はいた。

 ユトリロ・荻須高徳・佐伯雄三などの絵を好んで追っかけた。

 ゴッホも。あの厚塗りのヒマワリは好きだ。でもこの間、損保ジャパン日本興亜美術館の「吉田 博展」を一巡した最後の部屋に、館収蔵作品があった。

 セザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンの3点が並んでいる。真ん中の「ヒマワリ」には全く感動しなかった、何故か。迫力を感じなかった。昔のゴッホ展の画集を見てみた。ヒマワリは1点も載っていなかった。

 ゴッホとヒマワリはマスコミかお膳立てしたか?

自画像

版画は

版画を始めたのは、公民館で「多摩の民話を木版画に」という講座に参加してから、それまでは、年賀状ぐらいしか作っていなかった。その講座が終わって、まだ続けたい者達が版画の会をつくった。

公民館での版画活動は技術の習得に限界があった。

 仕事場は中野で建築の設計だった。当時駅の近くにサワムラ版画研究所があり、ここで「彫り、刷り、研ぎ」の技術の基本を習うことが出来た。

 版画生活で驚いたことは、冬、机の上にある水桶の水が凍っていたこと。夏は水桶にボーフラが上下していたこと。刷るときバレンの滑りをよくするため脂分が必要なので、自分の頭をばれんでなぞっていた。それを見ていた我が子2人が頭を交互に出した。バレンでその頭をこすると面白がってせがんだ。ほほえましかった。

しばらくして、絵の公募展の団体「春陽会」に出すようになった。

 チンチョンの絵は2001年に春陽会賞に選ばれた。初入選から20年目。チンチョンはマドリッドから南にバスで1時間のぐらいの小さな村。広場では年に何回かミニ闘牛が行われ、その時は周りのベランダが観客席になるという。この絵はスケッチのため現場に立った時に、すぐ版画にとりかかりたいと思った。逆光に浮かぶ広場のシャープな形を。帰りの飛行機では作品が頭の中で完成していた。

 この絵は大きさで苦労した。湿した紙が大きすぎて持ち上がらない。マットの大きさが決まっている。マットはつなきたくない。紙を湿すボール紙も無い。乾燥による紙の伸び縮みが大きい、づれないようにと一番苦労した。

審査前に額縁屋から、審査員の1人が「誰の作品か」と聞いていたことを知る。サワムラで教わった先生だ。同じ額縁屋を使っていたのだ。「賞」を期待した。その通りになった。

 授賞式の前日、賞金は100万と聞いていた。何に使おうか。以前からほしかったパソコンに充てよう!と、当日ビッグカメラに下見をしてから式に臨んだ。もらった封筒には5万円のみ。

「版画家は蔵が建つ」ということが昔言われたようだ。そういう時代もあっただろうけれど、今は、そんなことは夢の夢だ。

 銀座の個展を見て突然仕事場に、版画の会の指導をして下さいと人がやってきた。それで中野の版画の会が出来、何年か続いたが会員がだんだん減って、解散した。 国立でも出来た。2人が春陽会に入選して国立新美術館の壁を飾った。でも、この会も同じ道をたどる。

 今は、山梨市に教室があり、特急での月2回の往復は気分転換にいい。窓からの景色も間近に季節を感じられのがいい。

 版画は版の数を増やせばニセ札をつくることも可能だと聞いた。技術的にはいけると思う。

 版数を増やせばどんどん写真に近づいて行くだけだ。版を限定してつくるところに面白さを見つけなければならない。が、これがなかなか難しい。

個展と藤井先生

 久しぶりの個展を国立の画廊「岳」で行った。藤井先生が「チンチョン」の絵を買って下さった。自分がプロに認められたのだとすごく感動した。足を向けて寝られないぞ。

 先生は朝4時起きでストレッチ後、散歩に1時間かける。みそ汁の具を考えながら。

 仕事は午前中に終わってしまう。午後はジムと読書、執筆など。

TVはない。アトリエの壁には、自分自身を励ます言葉が貼ってある。

 とても真似の出来ない生活だ。

 2001年、先生に暑中見舞い「蔵王」を出した。色が素晴らしいと褒めてくれて、遊びに来ないかと電話があった。

 大先生のアトリエが見られるなんてとドキドキしながらお邪魔した。

 その時かなりの数の素描を見せてもらった。その素描の迫力に圧倒された。描きたいものしか描かない絵をそこに見た。

 イスにもたれている裸婦もイスが藤井先生の素描集よりない。ベッドの上の女もベッドは描かれていない。目からウロコ。

「取材旅行」に入る前に必ず腕のサビ落としをする。そのためにクロッキー研究所で1ヵ月鍛えてから行くと。なるほど。分かっていてもなかなか出来ることではない。

 素描の意味を教えられた。

 素描は本画を起こせるようなものでなくてはならない、3分、5分の素描を競っていたけど、意味がないと。

 それには、ある程度の大きさが必要になる。用紙も真っ白では、スペインの日差しを反射して目をやられる。少し黄ばんだ紙が良い。

 鉛筆も濃すぎると紙を汚すので2Bで十分と。

 いまだに忘れられない言葉。「個展の会場は一流の場所でやること。」これは見に来てくれた人を第一に考えることでもある。

 よく喫茶店でやっているのを目にするが考えられない。

 グループ展はほとんど見ない。案内状を出してくれた人の作品は見たいが、その1点のためにわざわざ出かけられない。

 2004年の「コートギャラリー(国立)」の個展では、先生の半世紀を話してくれて、これまたすごい人生だと感動した。食べ物がレモンしかなく過ごさねばならなかったマドリッドの生活など、大きな目標があってのことなんだなー。

「私の一生で 映画が1本つくれるほどいろいろな体験をした。」と言っていた。
(「藤井 哲の世界」備北民報社 ・ 「素描作品集」に詳しくあり。)

マドリッドでは、先生の宿を追っかけて行った。先生は長期(3カ月)滞在だから特別に夕食を宿の主人達と一緒にしていた。

 私も先生の口添えで、短期だけど一緒にしてもらった。旅行に慣れない者には夕食をとるのに気を使って実に厄介なもの。これで要らぬ心配をせずにニコニコだ。

 朝食のチューロ(ねじり揚げパン)とコーヒーの店も教わった。

 その先生も2008年に先立たれてしまった。癌だった。病に伏して3年だった。

 国立のアトリエには空調機がなく夏の暑さはこたえていた。晩年は沖縄に「世界最小のギャラリー」をもってそこで仕事をしていた。それが順調に回り始めたというのに、悔しい。

佐渡版画村美術館

 先祖は山師だったようて佐渡金山に関与していたと伝えられている。

 で、先祖代々の墓は佐渡にある。戒名には300年分が記録されている。

 お寺に行くとお寺に泊まって和尚さんと雑談。その会から版画村の会員になれと号令が下った。

 版画村は佐渡中の九つの地区におよそ100人の会員と云う家族的な雰囲気のあつまり。佐渡の住人が資格だったが先祖がはっきりしているのだ鬼太鼓から、かまわんと。ここで3回個展をした。

鬼太鼓

書記として

 春陽会の事務局に2年間書記として務めた。ボランティア。

  全書類を疑いの目で見直そうという意気込みで、加わった。普段、しゃべることもなく、家の机が仕事場の私にはとてもいい息抜きになった。

 週に1,2回外の世界に触れることはいろいろな情報をもらうことになる。ほっとけば萎む能をこのリズムは活性化してくれた。おかげでこの2年間、年を取ることを忘れていた。

 この会の問題点も人口減少だ。会を支える人が減ってしまうのだから運営が深刻。

 他の団体も同じで、会員の取り合いになってしまう。国立新美術館で展覧会を開けなくなる。そしてこんな状態で6年後、100回展を迎える。とりあえずそこまでは元気で、いなければならない。(その時箱根駅伝は99回。)

四谷かいだん

「階段から落ちた」ことを憶えていなかった。地下鉄四谷3丁目の階段を落ちて頭を打った。

 仕事が終わると飲み屋に直行が楽しみになってしまい、第2会議室と称して、昼間結論の出ない問題をサカナに飲んだ。

 11時頃まで飲んでいたらしい。気がついたときは新宿の救急病院で諸検査の最中だった。この件につきあわされた相棒には今も頭が上がらない。

年賀状

 木版画と言えば年賀状。普段は200枚ぐらいだが、個展を開いた年は400枚になってしまう。

 個展は秋の自分の誕生日を挟んですることにしているので、その礼状を兼ねるため、多くなってしまう。これも終活だ。0には出来ないけど減らさなくては。

 毎年いただいた中からベストテンを選んで教室で並べる。いつも思うことはへたくそな方が面白い。技術が先走ると嫌みになってしまう

木所氏版画
陳氏の版画

書票協会

 1969年(32歳)日本書票協会か新宿の文服装学院にあったころに蔵書票を頼まれた。最近になり国立在住の方の紹介で会に入り、3枚目の蔵書票をつくった。

 その時「旅」について次のように書いた。

 私にとっての旅はあくまでも「観光」でなく「取材」です。だから「旅」の持つ楽しさとかわくわく感はあまりなくて、いかにして絵になる場所、感動するポイントに出会えるかが一番大事です。ひたすら歩きです。宿も食事も二の次です。

 イタリアのサン・ジミニアーノは「美しき塔の町」として有名です。でも、「塔の景色」はいろいろと取り上げられているので、「塔」を作品にするのは面白くありません。

 この町も大通りからちょっと脇道を覗くと、こんなにすてきな景色に出会えます。

 この逆光の道は先へ下っています。道の上の梁には雑草が生えていました。 
 

終活に入る

 国立市は9月からゴミ有料になるから、8月中に不要品を出せといわれている。

 版木、スケッチブック、アルバム、彫刻刀、バレン、図書そして衣類と、処分するものが多い。彫刻刀、バレンは後継者に使ってもらいたい。ところがその人選がまた、大変だ。

 数えてないが版木が仮に100枚とすると 1日に4枚を50センチ以下に刻まなくてはならない。これが1時間以上かかる。

 生徒から「大事な版木を捨てるって抵抗ないですか?」「身を削られるような気がしませんか?」と聞かれた。そんな言葉を耳に、鋸を挽く。いずれ私のいなくなったところで捨てられるのだ。さみしいことはさみしいが仕方のないこと。

 捨てるそばから数は減ったが新作も作る。またゴミだ。生きている内は逃れられないのか。

 水彩が1番ゴミが少ない。墨1色がもっと少ない。でもゴミ減のために描いている訳ではない。何をどのように作りたいのか?いまだ分からない。描きたくなる場所も何処へ行けばいいのか、行ってみなければ分からない。場所探しに放浪の旅に出るべきか?

 過去の俳人の旅も同じような心境だったのかな?

 60歳で亡くなった昭島の友人(山形県出身)の作品を版木と共に預かってもらおうと山形美術館(県立ではない)を訪ねた。

 館長の話は「1,2点なら」。美術館はどこも収蔵庫が不足していて、とても無理な現況であるとのことだった。これが文化国家ですか?と言いたい。